2026.09.01
朝鮮通信使が愛した港町|鞆の浦に残る国際交流の歴史
鞆の浦歴史紀行
鞆の浦歴史紀行 Vol.7
潮待ちの港として栄えた鞆の浦には、この町を訪れ、この町から旅立ち、そしてこの町を想い続けた人々の物語が数多く残されています。
「鞆の浦歴史紀行」は、そんな鞆の浦にゆかりのある人物や出来事を、全12回にわたってご紹介していくシリーズです。
第7回は、江戸時代に海を渡って日本を訪れた「朝鮮通信使」。
鞆の浦というと、常夜燈や昔ながらの町家、穏やかな瀬戸内海の風景を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。けれど江戸時代、この港には朝鮮半島から使節が訪れ、日本の人々と交流を重ねていました。
その舞台の一つとなったのが、現在も鞆の浦に残る福禅寺の客殿「対潮楼」です。
今回は、朝鮮通信使とはどのような人々だったのか、そして鞆の浦がどのように彼らを迎えたのかをたどりながら、港町に残る国際交流の歴史をご紹介します。
海を渡って日本を訪れた「朝鮮通信使」
朝鮮通信使は、朝鮮国から日本へ派遣された外交使節です。
江戸時代には将軍の代替わりなどにあわせて来日し、対馬から瀬戸内海を通り、大坂、京都を経て江戸へ向かいました。
一行には外交を担う役人のほか、学者や書家、画家なども加わり、訪れた土地では日本の学者や文化人との交流も行われました。漢字を使った筆談や漢詩、書を通して、海を越えた文化交流が生まれていたといいます。
現在の鞆の浦を歩いていると、海外からの使節がこの町を訪れていたことを意外に感じるかもしれません。私たちも、いつもの町並みの中にこうした国際交流の歴史が残っているところに、鞆の浦の奥深さを感じます。
朝鮮通信使を迎えた潮待ちの港
朝鮮通信使の航路の途中にあった鞆の浦は、古くから瀬戸内海を行き交う船が集まる重要な港でした。
当時の船旅は、潮や風を読みながら進むものです。瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦は、潮の流れが変わるのを待つ「潮待ち」の港として発展し、多くの船が寄港していました。
前回の「鞆の浦歴史紀行」でご紹介した北前船も、この港を行き交った船の一つです。
商人や船乗りが集まり、品物や情報が行き交う鞆の浦は、朝鮮通信使を迎える場所としても重要な役割を担いました。
今は漁船や渡船が行き交う穏やかな港ですが、江戸時代には日本各地からの船に加え、海の向こうから訪れた使節も迎えていました。港を眺めながらその頃の往来を思い浮かべてみると、鞆の浦が海によってさまざまな土地とつながっていたことが見えてきます。
国際交流の舞台となった福禅寺・対潮楼
朝鮮通信使が鞆の浦を訪れた際、迎賓の場所として使われたのが福禅寺の客殿「対潮楼(たいちょうろう)」です。
対潮楼は1690年頃、海に面した石垣の上に建てられました。座敷からは弁天島や仙酔島、その向こうに広がる瀬戸内海を望むことができます。
ここでは朝鮮通信使と日本の人々が交流し、書や漢詩なども残されました。
1711年(正徳元年)には、朝鮮通信使の従事官・李邦彦(イ・バンオン)が、対潮楼からの眺めを「日東第一形勝」と称賛しました。現在も、その書を伝える扁額を見ることができます。
対潮楼を訪れるときは、建物や扁額だけでなく、座敷から見える海にも少し目を向けてみてください。
私たちが普段見慣れている弁天島や仙酔島の風景を、300年以上前に海を渡ってきた人々もここから眺めていました。同じ場所に立って海を見ると、歴史が町の中に続いていることを身近に感じます。
書や漢詩に残された交流の記憶
対潮楼に残るのは、美しい景色への称賛だけではありません。
朝鮮通信使が訪れた際には、日本の漢学者や書家らとの交流も行われ、書や漢詩が残されました。
海を越えてやって来た人々と、鞆で迎えた人々が同じ場所に集まり、文字や詩を通して言葉を交わす。港町だった鞆の浦らしい歴史の一場面です。
通信使が残した書や漢詩は、その後も大切に伝えられました。江戸時代には、菅茶山らによって多くの人に伝えるための版木も作られています。
対潮楼の座敷に残る書を眺めていると、この場所が景勝地としてだけでなく、人と文化が出会う場所だったことも伝わってきます。
朝鮮通信使と鞆の名産「保命酒」
朝鮮通信使と鞆の浦とのつながりをたどると、鞆の名産「保命酒」にも行き着きます。
江戸時代から造られてきた保命酒は、朝鮮通信使にも振る舞われ、通信使がその味を称えた漢詩も残されています。
今も鞆の町を歩けば、保命酒を扱う店や酒蔵に出会えます。
歴史の話を聞いたあとに町を歩いていると、普段目にする「保命酒」の看板も、少し違って見えてきます。対潮楼を訪ねたあと、そのまま町中を歩きながら保命酒を探してみるのもおすすめです。
261年ぶりに鞆へ。朝鮮通信使の復元船
朝鮮通信使と鞆の浦のつながりは、江戸時代だけの物語ではありません。
2025年5月、大阪・関西万博の開催と日韓国交正常化60周年を記念し、韓国で復元された朝鮮通信使船が、韓国・釜山から大阪まで、かつての航路をたどって航海しました。
復元船は5月7日に鞆の浦へ到着。翌8日には常夜燈前で歓迎セレモニーが行われ、鞆の浦漁協前の浮桟橋では船内見学会も開かれました。朝鮮通信使の船が鞆へ寄港するのは、1764年(宝暦14年)以来、261年ぶりのことでした。
色鮮やかな復元船が鞆の港に浮かぶ姿は、かつて通信使を迎えた港町の面影を、今の風景に重ねて見ることのできる特別な光景でした。
300年近く前、海を越えて人々が行き交った鞆の浦。その交流が時を経て再びこの港で結ばれたことは、私たちにとっても、鞆の浦が海の向こうとつながってきた町であることを改めて実感する出来事となりました。
スタッフおすすめは、対潮楼から町中へ
朝鮮通信使の歴史をたどるなら、私たちがおすすめしたいのは、福禅寺・対潮楼を訪れたあと、そのまま町中をゆっくり歩くコースです。
対潮楼で瀬戸内海を眺めたら、坂を下り、昔ながらの町家や細い路地を抜けて港の方へ。
途中には保命酒を扱う店もあり、さらに歩けば常夜燈や雁木など、港町として栄えた鞆の浦の風景が続きます。
対潮楼だけを見て次の観光地へ向かうより、少し時間に余裕を持って町を歩いてみてください。
私たちも町を歩くたびに、寺院や町家、港が思っている以上に近い距離に集まっていることを感じます。朝鮮通信使を迎えた場所から、当時の港町へ続く道を実際に歩いてみると、鞆の歴史が一つにつながって見えてきます。
海の向こうとつながっていた鞆の浦
現在の鞆の浦は、穏やかな瀬戸内海と昔ながらの町並みが残る港町です。
その歴史をたどると、北前船が寄港し、商人や旅人が行き交い、朝鮮通信使もこの町を訪れていました。
船とともに人が訪れ、品物や情報、文化が行き交う。
鞆の浦は長い歴史の中で、瀬戸内の各地だけでなく、海の向こうともつながってきた港でした。
ホテル鷗風亭へお越しの際は、福禅寺・対潮楼を訪ねたあと、少し遠回りをしながら港まで歩いてみてください。
対潮楼から海を眺め、路地を歩き、保命酒の店をのぞきながら港へ向かう。
そんな順番で歩いてみると、朝鮮通信使を迎えた頃の鞆の浦が、今の町並みの中にも重なって見えてきます。
次回の「鞆の浦歴史紀行」では、朝鮮通信使が「日東第一形勝」と称えた福禅寺・対潮楼の絶景と、そこに残された物語をご紹介します。
【参考資料】
▷ 福山市「鞆町の歴史(近世)」
▷ 福山市「福禅寺 対潮楼」
▷ 福山市「鞆の浦について」
▷ 福山市「朝鮮通信使」
▷ 文化庁 日本遺産ポータルサイト「朝鮮通信使復元船が鞆に来航しました!」
▷ 鞆の浦歴史民俗資料館「朝鮮通信使復元船がやってくる」
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