鷗風亭の旅だより

2026.08.25

鞆城跡と鞆の浦の歴史|瀬戸内の要衝として栄えた港町を歩く

鞆の浦歴史紀行

鞆城跡と鞆の浦の歴史|瀬戸内の要衝として栄えた港町を歩く

鞆の浦歴史紀行 Vol.5

潮待ちの港として栄えた鞆の浦には、この町を訪れ、この町から旅立ち、そしてこの町を想い続けた人々の物語が数多く残されています。
「鞆の浦歴史紀行」は、そんな鞆の浦にゆかりのある人物や出来事を、全12回にわたってご紹介していくシリーズです。

第5回は、鞆の町を見下ろす高台に残る「鞆城跡(ともじょうあと)」。

常夜燈や雁木、昔ながらの町家が並ぶ港町として知られる鞆の浦ですが、かつて町の中央には城が築かれていました。
現在の鞆城跡は、鞆の浦歴史民俗資料館が建つ小高い丘の一帯です。

私たちも普段は港側から鞆の町を見ることが多いのですが、ここまで上ってみると、町並みと港、その先の海まで一望できます。
いつも歩いている町を、少し高いところから眺めてみるのもなかなか新鮮です。

今回は、鞆城の歴史をたどりながら、鞆の浦が瀬戸内海の要衝として発展してきた背景をご紹介します。

港を見下ろす鞆城跡

鞆城跡は、港を見下ろす町の中央の小高い丘にあります。
城の起源は明らかではありませんが、福山市の資料では村上水軍がこの地に城を築いたと考えられています。

その後、毛利氏も鞆の浦を重要な場所として位置づけ、室町幕府最後の将軍・足利義昭を鞆に迎えました。
その頃には、すでに城が存在していたと考えられています。

その背景にあるのが、鞆の浦の立地です。
瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆は、古くから潮の流れが変わるのを待つ「潮待ち」の港として、多くの船が行き交っていました。

古くから多くの船が行きかう「潮待ち」の港、鞆の浦.jpg船が集まれば、人や物だけでなく、各地の情報も集まります。
さらに、港を見渡せる場所に城がある。
鞆の浦は、単なる船の寄港地ではなく、瀬戸内海の動きを見守るうえでも重要な場所だったのです。

足利義昭が身を寄せた「鞆」

鞆城の歴史を語るうえで欠かせない人物の一人が、室町幕府最後の将軍・足利義昭(あしかが よしあき)です。
1573年(天正元年)、織田信長によって京都を追われた義昭は、毛利氏を頼り、1576年(天正4年)に鞆へ入りました。

義昭は鞆を拠点として幕府再興を目指し、諸大名へ働きかけを続けました。
この時代の鞆の浦には、全国から使者が訪れ、さまざまな情報が行き交っていたと考えられます。
現在の静かな町並みからは少し想像しにくいですが、当時の鞆は政治の舞台でもあったのです。

鞆城跡に立って港を眺めていると、かつてこの町を舞台に繰り広げられた歴史の大きさを感じることができます。
足利尊氏から足利義昭まで、室町幕府の始まりと終わりに鞆の浦が深く関わっていることから、

「足利氏は鞆に興り、鞆に亡ぶ」とも語られています。

福島正則によって本格的な城へ

現在残る鞆城の姿につながる大きな転機は、関ヶ原の戦いの後でした。
1600年(慶長5年)、安芸・備後の領主となった福島正則は、重臣の大崎玄蕃を鞆に置き、三層の天守を築くなど城郭を整えました。

当時の鞆城には、本丸や二之丸だけでなく、三之丸なども設けられていました。
現在の穏やかな町並みから、ここに三層の天守がそびえていた姿を想像するのは、少し難しいかもしれません。

かつての城の姿を想像する石垣.jpgそれでも、残された石垣や地形を眺めながら歩くと、かつての城の姿を想像する楽しさがあります。
鞆城は1609年(慶長14年)に廃城となりました。

その後、福島氏に代わって備後へ入った水野勝成は、鞆城跡に長子・勝俊の居館を置き、その後は町奉行所が置かれるなど、鞆の町を治める拠点として使われました。

城跡から港へ歩いてみませんか

鞆城跡を訪れるなら、私たちがおすすめしたいのは、まず高台から景色を眺め、そのまま歩いて港へ下りるコースです。

鞆の浦歴史民俗資料館周辺からは、鞆の町並みと、その向こうに広がる瀬戸内海を見渡すことができます。
ここで少し立ち止まって、町と海の位置関係を眺めてみてください。

鞆の浦にある昔ながらの町家や細い路地.jpgそのあとは坂道を下り、昔ながらの町家や細い路地を抜けながら常夜燈のある港へ。
港まで着いたら、少しだけ振り返って、先ほどまでいた城跡の方向を見てみるのもおすすめです。

上から港を眺め、今度は港から城のあった丘を見る。
実際に歩いてみると、鞆城が港と深く結びついた場所にあったことが、より身近に感じられます。

鞆の浦は、目的地だけを目指して歩くより、途中の坂道や路地にも目を向けながら歩くと、思いがけない景色に出会える町です。
少し時間に余裕があれば、ぜひゆっくり歩いてみてください。

城跡から見える、鞆の浦の歴史

現在の鞆城跡に、かつての天守は残っていません。
けれど、城跡から町と海を一緒に眺めると、鞆の浦が長い歴史の中でなぜ重要な場所だったのかが、少し見えやすくなります。
私たちが普段何気なく眺めている瀬戸内海も、昔は武将や商人、旅人たちが行き交い、人や物、情報を運んだ海でした。

そして鞆城が姿を消したあとも、鞆の浦は港町として発展を続けます。
常夜燈や雁木、保命酒、朝鮮通信使、北前船――。
これからの「鞆の浦歴史紀行」で登場する物語も、この港の歴史につながっています。

ホテル鷗風亭へお越しの際は、常夜燈や港の町並みを巡る途中に、少し坂を上って鞆城跡にも立ち寄ってみてください。
城跡から海を眺め、路地を歩いて港へ下りる。
そんな順番で歩いてみると、いつもの鞆の浦が、また少し違った角度から見えてくるかもしれません。

次回の「鞆の浦歴史紀行」では、「北前船が育てた潮待ちの港」をテーマに、港町としてさらに発展していった鞆の浦をご紹介します。

【参考サイト】

▷ 福山市「鞆町の歴史(近世)」
▷ 福山市「鞆町の歴史(古代から中世)」
▷ 福山市「鞆町の歴史(位置と自然)」

本サイトの絵文字は Twemoji(© Twitter, Inc. and contributors)を使用しています。ライセンス:CC-BY 4.0

AIコンシェルジュ よくある質問