2026.08.17
坂本龍馬と「いろは丸事件」|幕末の鞆の浦に残る足跡
鞆の浦歴史紀行
鞆の浦歴史紀行 Vol.2
潮待ちの港として栄えた鞆の浦には、この町を訪れ、この町から旅立ち、そしてこの町を想い続けた人々の物語が数多く残されています。
「鞆の浦歴史紀行」は、そんな鞆の浦にゆかりのある人物や出来事を、全12回にわたってご紹介していくシリーズです。
第2回は、坂本龍馬(さかもと りょうま)。
幕末の日本を駆け抜け、新しい時代の扉を開こうとした人物として広く知られる坂本龍馬。高知や長崎、京都の印象が強い龍馬ですが、鞆の浦にもその足跡が色濃く残っています。
龍馬と鞆の浦を結びつけたのは、1867年(慶応3年)に起きた「いろは丸事件」でした。海難事故をめぐる談判のため、龍馬は鞆の浦に滞在し、紀州藩を相手に交渉へ臨みます。
今回は、坂本龍馬といろは丸事件、そして今も鞆の浦に残る龍馬ゆかりの場所、さらにこの歴史を後世に伝えるために活動してきた地元の人々の物語をご紹介します。
龍馬と鞆の浦を結んだ「いろは丸事件」
1867年4月23日、坂本龍馬率いる海援隊が乗り込んだ「いろは丸」と、紀州藩の軍艦「明光丸」が、現在の岡山県笠岡市・六島付近の海上で衝突しました。
大きな損傷を受けたいろは丸は、港湾施設の整った鞆港を目指して曳航されましたが、その途中で沈没します。幸い乗組員は明光丸へ移り、龍馬たちは鞆の浦へ上陸しました。
船や積み荷の損害を誰が負うのかをめぐり、龍馬率いる海援隊と紀州藩との間で交渉が始まります。瀬戸内海で起きた一つの海難事故は、やがて幕末の歴史に名を残す「いろは丸事件」へと発展していきました。
港町を舞台に始まった紀州藩との談判
鞆の浦に上陸した龍馬たち海援隊は、廻船問屋を営んでいた桝屋清右衛門宅に滞在しました。一方、紀州藩側は円福寺を宿舎とし、双方の宿泊先の中間に位置する魚屋萬蔵宅や、福禅寺の客殿「対潮楼」で談判が行われたと伝わっています。
相手は、徳川御三家の一つである紀州藩。藩を持たない海援隊にとって、決して対等とはいえない相手でした。
それでも龍馬は、万国公法などを根拠に紀州藩側の責任を主張します。鞆の浦での談判は4日間に及び、ここでは決着しなかったものの、その後も交渉は続きました。最終的に紀州藩が賠償に応じたことで、龍馬と海援隊の名は広く世間に知られるようになります。
現在の穏やかな町並みからは想像しにくいものの、幕末の鞆の浦では、時代を揺るがす緊張に満ちた交渉が行われていたのです。
龍馬が身を隠した桝屋清右衛門宅
いろは丸事件の際、龍馬たちの宿舎となったのが「桝屋清右衛門宅」です。龍馬は幕府から追われる身であったため、「才谷梅太郎」という変名を使って滞在していました。
この建物には長年、「龍馬が屋根裏の部屋に泊まった」という言い伝えが残されていました。1989年、地元の有志が天井を調べたところ、当時のまま残された隠れ部屋が発見されます。現在はこの部屋は整備され、一般に公開されています。
天井の低い小さな部屋に立つと、昼は紀州藩との談判に臨み、夜は人目を避けて過ごした龍馬の姿が思い浮かびます。歴史上の人物として知られる龍馬を、一人の青年として身近に感じられる場所です。
「いろは丸」を探した鞆の人々
いろは丸事件の物語は、龍馬や海援隊だけのものではありません。
事件から100年以上が過ぎた昭和の終わり、この歴史をもう一度確かめようと動き始めたのが、鞆の浦に暮らす人々でした。
「鞆を愛する会」は、海底に沈んだいろは丸の所在を確かめるため、1988年(昭和63年)に事前調査を実施しました。そこで海底の高まりが確認されたことをきっかけに、同年から1989年、さらに2005年にかけて本格的な海底調査が行われました。
文化庁の資料では、これらの調査結果から、発見された沈没船がいろは丸である可能性は極めて高いとされています。海底からは、船体の一部とみられる木材や滑車、陶磁器など、さまざまな遺物が発見・引き揚げられました。
いろは丸とみられる沈没船は、現在も福山市宇治島沖、水深約27メートルの海底に静かに眠っています。
現在、私たちが知る「いろは丸事件」の歴史は、古い記録だけによって伝えられてきたものではありません。
地域の人々が自ら海へ向かい、その痕跡を探し続けたことで、150年以上前の出来事が、より確かな輪郭をもって私たちの前に姿を現したのです。
地域の力で歴史を未来へ
こうした地域の活動によって、いろは丸事件は単なる「幕末の出来事」ではなく、現在の鞆の浦を訪れる人が身近に感じられる歴史文化の一つとして受け継がれています。
常夜燈の近くにある「いろは丸展示館」では、海底から引き揚げられた遺物や沈没状況を表したジオラマ、調査風景の写真などを見ることができます。
また、2010年(平成22年)に就航した、鞆の浦と仙酔島を結ぶ市営渡船「平成いろは丸」は、坂本龍馬らが乗船していた「いろは丸」をモチーフに造られた船です。短い船旅の中にも、龍馬ゆかりの港町らしさを感じられます。
歴史を調べ、海底を探し、見つかったものを展示し、今のまちの魅力として伝えていく。いろは丸をめぐる物語には、「地域の歴史を地域の人々が掘り起こし、守り、次の世代へ伝える」という、鞆の浦らしいまちづくりの姿も表れています。
鞆の浦ゆかりの実業家・森下博に思いを馳せながら、ぜひ売店でもご覧ください。
今も鞆の浦に残る龍馬といろは丸の足跡
鞆の浦の町を歩くと、龍馬といろは丸事件にまつわる場所に次々と出会います。談判の舞台となった旧魚屋萬蔵宅(現在の「御舟宿いろは」)や福禅寺の客殿「対潮楼」、紀州藩側が宿舎とした円福寺、そして龍馬が滞在した桝屋清右衛門宅。いずれも歩いて巡ることができます。
常夜燈の近くにある「いろは丸展示館」へ立ち寄れば、海底から引き揚げられた遺物や調査資料を通して、150年以上前の出来事がこの海で実際に起きたことをより身近に感じられるでしょう。
細い路地や昔ながらの町家、港に立つ常夜燈を眺めながら、今も残る龍馬の足跡を訪ねてみてはいかがでしょうか。
歴史を知れば町歩きはもっと楽しくなる
坂本龍馬が鞆の浦に滞在したのは、わずか数日でした。
しかし、いろは丸事件をめぐるその数日間は、幕末の鞆の浦を歴史の大きな舞台へと変えました。
穏やかな港を眺めていると、紀州藩との談判に臨んだ龍馬の緊張や、沈没した船をめぐって奔走した海援隊の人々の姿が浮かんでくるようです。
そして、その歴史を100年以上後の私たちに伝えてくれたのは、古い建物や資料だけではありません。いろは丸を探し、海底を調査し、町の魅力として伝えてきた地域の人々の活動もまた、鞆の浦の歴史の一部です。
当時の人々がどのような思いでこの町を行き交ったのか。そして今を生きる鞆の人々が、どのようにこの歴史を守り伝えてきたのか。そんなことに思いを巡らせながら歩くと、鞆の浦の町並みはまた違った表情を見せてくれるかもしれません。
ホテル鷗風亭でお過ごしいただく時間とあわせて、幕末の物語と、それを今に伝える人々の思いが息づく鞆の浦の、もう一つの表情をお楽しみください。
次回の「鞆の浦歴史紀行」では、足利尊氏と鞆の浦にまつわる物語をご紹介します。
【参考資料】
▷ 福山市「坂本龍馬と鞆」
▷ 福山市「鞆の浦について」
▷ 福山市「いろは丸展示館」
▷ 福山観光コンベンション協会「桝屋清右衛門宅(坂本龍馬の隠れ部屋)」
▷ 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所『坂本龍馬の「いろは丸」』
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